第35話 『旧き世に禍いあれ (3) – “猟犬の追尾”』 Catastrophe in the past chapter 3 – “Tracking hounds”

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 その黒い犬は、長い舌を口からだらしなく垂らしていた。太く曲がりくねったそれは、舌というよりも針のように尖っている。

 褐色の闘犬に似た四肢を持っているが、頭の部分は妙にぼやけて見える。形がなく、いくつかの鋭い触手のようなシルエットのひとつが、長い舌のように見えてうねっていた。

 その全体的に鋭利なシルエットは、狩猟犬を連想させた。

「何だこいつは……」

 ゴットフリートの声だったのか、自分の声だったのか、それともふたりの声か。臭気と混乱で、フィリップには判断が出来なかった。

 猟犬、なのだろうか。4つ足の黒い影はその太い四肢で地面にしっかりと立ち、周囲の様子を探っているように見えた。その異様な姿は生理的な嫌悪感が込み上げてくるものだったが、目を逸らすことができずにいた。こいつは一体何者なのか? どこから来た? 何故ここに? 仮にこいつが猟犬なのだとしたら、一体何を狩るためのものなのか。 何一つわからないにも関わらず、なぜか「こいつの狙いは自分だ」という説明不能な確信が強まっていく。

 猟犬はゴットフリートには見向きもせず、フィリップの位置を見定めると、迷わず飛び掛かって来た。

 やはりこちらに来たか、と心中で考える間もなく猟犬の舌先は首元まで迫っていた。先程受けたゴットフリートの攻撃より速い。

 フィリップは即座に短距離のテレポートを行う。吐き気が込み上げるが、避ける方法は、フィリップの持つ術ではこれしかない。連続して転移を行って、魔力を使い過ぎた。

 空間のブレが収まり視界が明瞭になった瞬間、フィリップは激しい痛みに苦痛の声を上げる。

「なっ!?」

 確かに転移は成功したはずだった。

 痛む左腕を見れば、注射針のような舌が刺さっている。

 猟犬が傍らに突き立った最初とは別の盾から這い出てきている。長い舌は盾から半身だけを乗り出した猟犬の胴体から繋がっている。

 フィリップはそれを引き抜こうと腕を振り回すが、抜けない。

 攻撃をかわすために数歩距離を取って転移したのに、転移先の足元ですでに待ち構えていたかのような……。

 猟犬は両足で地面をしっかりと捉え、頭部を振るってフィリップを引っ張る。

 ゴットフリートは離れたところから、目と口を開けて呆然とその様子を見ている。

(まさか……こいつも短距離転移したのか?)

 猟犬の下肢は傍の盾の影から伸びているように見えた。斜めに地面に突き刺さった盾の影から、隠れていた下肢の先が這い出してくる。

 テレポートしたため、ゴットフリートとフィリップの間にはかなりの距離がある。

 この距離をただ跳躍してきたとは思えない。この一瞬でそんな動きをしていたら、正確に左腕を狙う事もできそうにないし、その勢いでそのままフィリップに体当たりした方が早いだろう。人型ではない魔物で、転移術を使えるものはほとんどいないはずだ。覇王の軍勢の中でも、そんなやつは見たことがなかった。

 転移でなければ説明がつかない。

(追尾するように転移して、土の地面と盾の間の空間から這い出てきた……? そんな、まさか……)

 フィリップが振りほどけず、まごついている間に、舌を突き刺された左腕の変化がはじまった。

 舌が刺さった周囲から、どんどんと左腕がしなびはじめたのだ。

「く、クソ……ッ!」

 信じられないことの連続でパニックになりかけたが、フィリップはぐっと奥歯を噛みしめて正気を保つ。

 ベルトのホルダーからナイフを取り出し、その舌を思い切り切り払った。舌は容易に切れ落ち、断面から暗い青灰色の液体がぼたぼたと垂れ落ちた。

 すかさず後ずさって距離を取る。舌を切り落とされて喘いでいるように見えた猟犬は、今度は距離を保ったまま、すぐにこちらに飛んでくる様子はない。刺された左腕は、もう原型をとどめていなかった。

(腕が……なくなった……!?)

 舌が抜けた後も左腕は、ミイラのように乾燥しながらどんどん細くなっていく。

 ミイラというには、元の骨を無視した縮み方だった。水気を失いカラカラに乾いた野菜カスのようになっているが、内側の骨まで同様に萎縮したとしか説明がつかない。

 痛みはない。すでに左腕の感覚は全くなくなっていた。かえってそれが異様に恐ろしく、フィリップは額に噴き出した冷や汗を袖で拭った。

 あの舌はなんだ? 一体、何が起きた? 何かを吸われたのか? あの猟犬はどうやって足元に移動してきた? 左腕は諦めるしかないか? ぐるぐると脳をたくさんの言葉が駆け巡る。

(逃げろ……)

 本能が叫ぶ。その通りだ。

 逃げるしかない。ゴットフリートでさえ手に負えないのに、突然現れた襲撃者は、それ以上に危険な存在だった。この場に留まって状況を解決する術など、自分は何も持ってはいない。

 じり、とフィリップがさらに後じさると、猟犬がそれを見て体を低くした。

 再び、先ほど感じた刺激臭が強くなる。

 ぼうっと青黒い煙が、あちこちに落ちている遺品の盾や剣、鎧といった角のあるものから幾筋も立ち上る。それぞれが凝って、どれもが同じように猟犬と同じ形状を取り始めた。左腕を奪ったはじめの一頭よりはいずれも小さいものの、やはり姿はそっくりで、姿を成すや、すべてがフィリップに敵意を向けて周囲を取り囲み始める。

(何だこれは……)

 フィリップは頭の中で今まで読んだすべての文献や図録の記憶をひっくり返す。こんな怪物は、見たことも聞いたこともない。神話の類にもこのような存在が示唆された試しもなかった。

 とにかく、とにかく逃げなければ。だが、どうやって?

 すっかりと左腕は、押さえた右手で隠せるほど小さくなってしまった。

 フィリップが駆け出す。同時に猟犬たちが地を蹴る軽い足音が響く。

「――……どうやら、てめえの飼い猟犬じゃなさそうだな」

 低く太い声。

 絶体絶命か。これほどの生物を前にして、さらにゴットフリートまで相手にする事など、不可能だ。

 だが、ゴットフリートは、フィリップを追撃しようとする猟犬たちのいる方に剣の切っ先を突きつけて、がははと無遠慮に笑った。非常に愉快そうにその瞳の奥に紅蓮の炎が立ち上る。

「魔術師なんかよりも、数段面白そうじゃねえか! 猟犬!」

 咆哮に近い怒号を上げ、剣を振りかざした。

 その剣圧は風を切り裂く音を伴い、猟犬に襲い掛かる。離れたところにいたフィリップまで風圧が迫るほどの力強さ。

 ゴットフリートの剣先は猟犬の一頭を切り裂く。それをはじまりにいくつもの猟犬を切り飛ばして、はじめに現れた個体に向かって行く。

 猟犬たちはフィリップを追う邪魔をされて、すぐさま別方向に跳ねた。

 ゴットフリートはその動きを読んでいたように、振り下ろした剣を真横に一閃する。

 切っ先がかかりそうになるも、猟犬が避ける方が紙一重で早い。

 大股に踏み込み、ゴットフリートが今度は大きく剣を突き出す。

 小型の猟犬が何体も切り裂かれ、霧のように消える。逃げ惑う猟犬たちは、最大の個体を守るようにゴットフリートを取り巻く。群れの鼻先は、すでにその全てがフィリップから逸れてゴットフリートに向けられていた。

 一閃、二閃、迫る取り巻きの小型を次々なぎ倒し、首を落とされた小型の胴を蹴り飛ばして、大型の猟犬の腹部に強かに打ち込む。大型はその衝撃によろめき、間髪入れずゴットフリートは蹴り抜いた足を踏み込み、大剣の先が轟音を立てて唸る。

「おらぁ!!」

 怒号。

 最後に残った猟犬は、すんでのところで体勢を整え、身を翻してゴットフリートに飛び掛かる。ゴットフリートは構わず迫る猟犬の頭部目掛けて大剣を振り抜いた。

 一瞬の、そして突然の静寂。猟犬がいない。すっかり気配までなくなった。息遣いすらも。

 歴戦の猛者であるゴットフリートでさえ、大剣が命中する直前に突然姿を消した猟犬を目で追うことはできなかった。

「ああ? 犬っころめ! どこに行きやがったぁ!」

 夜の雪山に、野太い声が響く。

 ゴットフリートは消えた猟犬たちを探すために、見開いた眼で周囲を見渡す。そこには、膝をついたフィリップとゴットフリートの姿しかない。

 けれど、ゴットフリートは警戒を解かない。手応えがなかった。これで退く相手ではないと彼は理解していたし、フィリップも同様に理解していた。

「ふんっ」

 気合を入れなおし、ゴットフリートは柄を握る手に力を込めた。どこから飛び出してきても、一振りで仕留める。その巨躯と同じほどの丈の剣を、それだけの速さで振るえる者は、トラエに彼を置いて他にはいない。

 辺りを窺っているゴットフリートの背後から、突然現れた大型が飛びかかる。ゴットフリートは殺気のみからその出現を察知し、反転して剣を振り抜く。

 反応されることを予期してか、猟犬は剣先の手前で空を蹴って退き、振り抜かれた剣先をやり過ごしてから再び地を蹴ってゴットフリートに向かって飛ぶ。

 それに応じ、振り抜いた剣の勢いに任せて回転、跳躍し、飛来する猟犬に自ら飛び込んで二撃目を狙う。

 満月の空に、飛び掛かる猟犬と剣を構えた英雄の影が浮かび上がる。

「これで決まりだ!」

 猟犬の尖った舌と、ゴットフリートの剣先が交差する。

 猟犬は何も貫くことなく着地した。

 さきほどまでゴットフリートが立っていた場所に、そっくりと足の跡があるだけだった。

 突然、目の前から獲物がいなくなり、墓石の影から小型の仲間たちもそろそろと出てきた。全頭が戸惑ったかのように辺りを見渡し歩き回る。

 本来の獲物であった筈のフィリップも、邪魔をしてきたゴットフリートの姿もなかった。

 今度は雪の上に、奇妙な猟犬たちだけが取り残されていた。

 周囲をしばらくうろついたあと、鼻をクンクンを動かす。

 静かに、一頭が墓石の影に消えていく。

 また一頭、また一頭とその後に続き、やがて全ての猟犬が、戦場から姿を消した。

 残されたのは、戦死者たちを覆う雪だけだった。

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 猟犬の頭をたたき割るために剣を振るったその刹那、世界が光に包まれた。

 直後に、体の重心がブレた感覚に襲われ、ゴットフリートは反射的に目をつぶった。

 1秒と経たずに体の重心が元の位置に戻り、目を開ける。

 猟犬はいなかった。

 まるで夢だったかのように、自分ひとり、小汚い部屋の中心に立っていた。

 肩当てには、剣圧で舞い上げて浴びた雪が、まだ薄く積もっていた。剣先にも、あの薄気味悪い生き物の返り血がこびりついたままだ。

「……ったく、興が冷めるぜ」

 満月の照らす雪の斜面ではなく、見慣れた兵舎の中だ。誰かが置き忘れたであろうシャツで剣の血を軽く拭い、鞘に戻す。兵舎は狭すぎる。抜身の剣を手に歩けるほどの幅もない。

 久々に、心の底の方から沸き立つような敵と相対した興奮は、まだ体の底にくすぶっていた。

「やってらんねえな!」

 ゴットフリートは、転がっていた誰かの飲み残しの木製ジョッキを蹴り飛ばした。ジョッキは棚に当たり、耳障りな音を立てる。何もかもが苛立たしく、やり場のないフラストレーションがゴットフリートの内に燻っていた。

「助けたつもりかよ、あの野郎め……俺は勝ってたッ」

 兜を小脇に抱えてバリバリと頭を掻いて、フンと大きな鼻息を吐いた。

 また酒保にでも行くか、今日の分はもう飲んだけど若ぇ奴の分をふんだくるか、などと考えながら歩きはじめたゴットフリートは、異変に気が付いた。

「んだぁ? うるせえなぁ」

 遠くから音がする。建物の外か。すぐにそれが何か、感づき、目を見開く。

 この音を、ゴットフリートは知っている。身近でずっと聞き続け、その中を走り抜けてきた。

 戦の気配。命を奪い合う者たちが放つ、独特の気配。ゴットフリートが生きる場所だ。魔術師、猟犬。次々降って湧いた獲物を前におあずけを食らって行き場をなくした”飢え”が、再び首をもたげた。

 にやりと口角を上げて、ゴットフリートは胸を張った。

「仕事の時間か」

 扉を蹴破り開けて飛び出す足取りは、子供のように無邪気だった。

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(自分がしたことは、本当に許されることなのだろうか……)

 スヴェンは何度も何度も繰り返した疑問に、自ら押しつぶされそうになっていた。

 とんでもない過ちを犯したのではないだろうか。

 真実は追い求めてきた。時空を遡行するという研究の真相に魅せられた心はまだ輝きを失っていない。

 だが、それはあくまで自分の手で引き寄せたかった奇跡のはずだ。自らが完成してこそ意味を持った奇跡だったのではないか。

 それでも、自分の人生で成し遂げられないというのなら、せめて知りたいと願ってしまった。

 スヴェンは泣きたいような叫びたいような、複雑な心を噛みしめた。

 ぶんぶんと首を振る。

「これでいいのだ……吾輩が自分で決めたことだ……」

 そう思いながらも、机の上の本を開くことは出来なかった。

 フィリップから、警備の情報と引き換えに得た本。

 真実を目にしてしまえば、知る前には戻れない。

(未来からもたらされた知識……)

 本来は今、ここには存在しないはずの知識を、自分が詳らかにしてしまってもよいのか。自分のためだけに使うのであれば、問題はないと言えるのか。意図せず自身のものとして世界に放り出されてしまわないか。自問する言葉はいくらでも心の底から浮かび上がってくる。

「……しばらく何か違う本でも読もう……」

 再び窓の外を見ると、兵士たちが駆け出し、叫び合う声がした。敵襲……? 今、敵襲と言っていなかったか? 背中を汗が伝う。

 窓の外に身を乗り出して、メガネを押し上げる。目を細め必死で夜闇を見た。

 斜面を敵がやってくる。しかし、何か妙だ。あの集団はどうしたことか、どいつもこいつも大きく頭を左右に振り、各々が方方によろめき歩いて、統率が取れていないように見える。雪に足を取られ倒れる、しかしその横から、また別の兵士が立ち上がる。そうして、起き上がった者が列に加わり、数が見る間に増えていっている。ラウニやソルデの進軍にしては、不自然過ぎる集団だ。

「あれは……?」

 深いため息を漏らし、背後の物音にスヴェンは振り向いた。

 室内に、フィリップが立ち尽くしていた。昼間に姿を消した時とは打って変わってげっそりと痩せこけた印象で、左肩を押さえている。

「おお……」

「ここはもう危険だ」

 フィリップは微かに震えた声でスヴェンに告げた。

「何が起きてるんだ?」

「襲われた。ゴットフリートに出くわして、その後どこからか猟犬のようなものが現れた」

「ゴットフリートと?!」

 スヴェンは思い出した。ゴットフリートは酒を飲んでは城外を機嫌よく散歩することがある。そんなに頻繁ではないので失念していが、まさか、今日に当たるとは……。伝えなかった事に対する罪悪感がほんの一瞬だけ芽生えたが、すぐにそれは顔を隠した。

 スヴェンを見つめて、フィリップは右手を離した。その下には、あるべきものがない。

「腕、が……」

 切断されているわけでもない。ただ、不自然なほど委縮し、形を変えていた。

 恐ろしくて息を飲む。

「分からない。猟犬に刺されたあとで、こうなった」

 スヴェンは目を白黒させて、カチャカチャとメガネを直した。

「刺されたんだ。あの長い舌で……肘の上の辺りをやられたと思ったら、腕がこうなった」

「し、知らない!そんなおかしな犬がこの雪山に出るなんて聞いた事がない!私は知らなかった事だぞ!? ご、ゴットフリートの事だって…!」

 スヴェンは必死に、大げさな身振り手振りで弁明した。

 フィリップは探るようにスヴェンを見ていたが、やがて息を吐いて項垂れた。

「……ゴットフリートの方に猟犬の注意が向いて、その隙に長距離転移の準備が出来た。今頃、ゴットフリートも城塞のどこかに移せたと思う」

「なんてことだ……今、外が大変なことになっているようだ。君が何かしたわけではないのか?」

 スヴェンのどこか切羽詰まった様子に、フィリップは首を傾げた。それを見て、スヴェンは腕を突き出して、研究室の窓の外を指差した。

 フィリップは、山の斜面から兵士たちの屍体が起き上がる光景を目にした。

 そして、慄いた。

 遠くから音がする。うめき声が重なり合い、波のように城塞に押し寄せている。

「これ、は……」

「信じられないだろうが、ここから見る限りでは、斜面の戦死者が起き上がっているように見える。そうとしか思えん。雪の下から出てきて、城塞に向かってくる……お前がやったんじゃなかろうな?」

「……屍体が、起き上がった……? それは…」

 スヴェンは不服そうにメガネを押し上げた。

「死体が起き上がって、この城を攻めてきている」

 スヴェンの言葉を聞きながら、フィリップも窓の外に身を乗り出した。

 信じられない。

 さきほどまでフィリップは、ゴットフリートとあの猟犬と共に斜面にいた。猟犬に襲われ、命からがら城塞まで転移してきた。

 しかし……、斜面からやってきているものは、猟犬ではない。先程雪の下から掘り出した兵士の屍体と同じ防具を着込んでいることが、月明かりに照らされて垣間見える。

「外で何があった? 一体何が起きている!? 未来から来たのなら、この城塞の歴史は知っているのだろう? 何があったのだ、あれはなんなんだ、このあと何が起きる!?」

「そんな…… 知らない、こんな事、僕は…」

 城内では悲鳴まで上がり始めている。

 フィリップは真っ直ぐと城塞に向かう屍者の群れを見る。ひとつひとつ小さな点に見えるが、それが幾千も動き始める。

 ありえない。

 だが、フィリップは屍者がひとりでに動くことがある前例を知っている。

 世界の秩序が崩壊した日から、覇王の呪いを受けた屍者たちが立ち上がり、人々を襲い始めた。フィリップとグレーテルは、その屍体たちとこれまで戦ってきたのだ。

 全てが始まったあの日の情景によく似ている。

 ただ、ありえない。フィリップが知っている歴史では、この時期は人間同士の小競り合いこそあったが、まだ覇王は目覚めていなかったはずだ。屍者たちも、まだ起き上がってきてはいなかったはずだ。

 だから、今こうして屍者がひとりでに動くなんてことは起こりえない。

「どうして……」

 フィリップは言葉を飲み込んだ。

 間違いない――あれは覇王の呪いを受けた者達だ。始めこそふらつきながら斜面を這い上がってきてた屍者たちの動きは見る間に活性化されていき、兵士たちの数倍も速く、そして生身の人間では考えられない力強さで兵士たちを易易となぎ倒す。兵士たちは木の葉のように簡単に弾き飛ばされていく。ただの屍者操作、ゾンビの類でできる芸当ではない。Buriedbornesの術を受けた者だけに見られる、人間を超えた動き。

 屍者には感情がない、痛覚もない。限界を超えて動き、破壊され動けなくなるまで何度でも立ち上がる。

 人間は疲弊する。今までの戦場とはかけ離れている事態に混乱している。倒れても何度でも起き上がる怪物に対して抱かれる感情は、恐怖でしかない。訳も分からず、城の者達は圧倒的な力を持った屍者たちに蹂躙されていく。悲鳴がブラストフォート城塞を支配している。

 これは、あの日と同じではないか。

 忘れることのできないあの日に。

「フィリップ、何が起きているんだ!」

「僕には分からない、何も知らない」

 狼狽し、迫るスヴェンを突き放した。よろめき驚いて目を見開いたスヴェンに、フィリップは胸が痛んだ。まだ何も確信はないが、他に理由が考えられない。これは覇王の呪いだ。フィリップたちが立ち向かっている困難とあまりにも酷似している。

 まさか、自分がここに来たことで、自分が受けている呪いをこの時代に広めてしまったのではないか?

 それをどう伝えれば良い?また伝えたところで、何ができる?

「……ん? 何か臭わないか?」

 スヴェンが怪訝そうに声を上げた。

 フィリップは、心臓の鼓動が跳ねるのを感じた。

 この臭いを、フィリップは一度嗅いでいる。

 咄嗟に周囲を見渡して、机の角から青黒い煙が細く漏れ始めたのを見つける。

(いけない……! あの猟犬がくる!)

 フィリップは確信した。これ以上、この時代にいることはできない。

 全ての謎に、この場で答えを出す時間はもうない。閉鎖時空間を開く呪文の詠唱を始める。

「フィリップ!」

 発生させた時空の”扉”に、自ら飛び込んだ。

「これから何が起こるかだけでも…!」

 スヴェンの悲痛な叫び声がこだましたが、最後まで耳にする事はできなかった。

 ――何かを考えている暇もなかった。

 フィリップには、スヴェンを置き去りにし、現在へ逃げ帰る以外の選択肢はなかった。

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~つづく~

原作: ohNussy

著作: 森きいこ

ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸い

です。

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