クトゥルフ神話の宗教主観と超越的視点、というおはなし

こうした長い記事をわざわざ書いているのは、そもそもTwitter上にてクトゥルフ神話の原作に触れた事がないけどクトゥルフ神話が好きだという方向けに「クトゥルフ神話にまつわる、日本人の宗教主観のお話」の補足としたツイートがコアなファンにとっては看過しがたい表現を含んでいた事に端を発します。

結論から先に言ってしまえばこの発言自体は意図が不明確な表現のミスで、一部訂正が必要なものです。ただ、このような表現に至った事自体にも理由があり、そこも含めて、お話しようかと思います。

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https://twitter.com/ohNussy/status/749983279177011200

「そんなわけで、作品群自体ではラブやん本人のあくまで自己主観で信仰倒錯を表現していたものの、後世に知れ渡ったのはそれが結果的に「信仰を超越した上位者の可能性」に言及したものだった事が結果としてSFホラーの新風として注目されたんだろうな、と思います。まとめ、おわり。」

まず、この一連のツイートは、以下の主目的から行いました。

  • クトゥルフ神話全体の持つ「”冒涜的”恐怖」が、何故「日本人には本質的に理解できないのか」を自己の解釈から説明する

クトゥルフ神話の恐怖感について話をする上で、重要な2つの視点があります。

  • 宗教主観
    これは、いわゆるキリスト教的視点から観た、それに反するものへの恐怖や嫌悪・それを信じ縋る信仰心を軸とした視点です。
  • 超越的視点
    これは、そうした宗教観から完全に離れた、宇宙的に見て人間の宗教観や善悪がちっぽけなものであるとした視点です。

今回の一連のツイートは、前者を取り扱ったものです。

日本人、あるいは神道の傾向として、宗教に客観視点はあっても、宗教主観がないという事を一連のツイートで説明しています。宗教主観がないために、自己宗教への依存がないために、それが否定される事が精神的致命傷になる事が理解できない、と説明しています。冒涜的・涜神的な存在によって自己の信仰を冒され、狂気に至る、その心理は何故起こるのか?そこに、宗教主観があるからです。

これらの観点が「ラブクラフトの主観」として説明したのは、この「宗教主観」の観点を説明する上で言及したひとつの解釈方針です。一般的な現代日本人にとって全く馴染みのない「土着信仰が、海の底にある未知の存在を崇め、そして”涜神している”」という感覚の説明には、主観の説明が不可欠です。涜神とはなにか?涜神を涜神たらしめるものは、何なのか?

「そんなヤツは最初からいねえ!俺がお前のママなんだよ!」はこの涜神をTLユーザに解釈しやすい表現に落とし込んだもので、つまり「正常と信ずる既知の事実があり、そしてそれが否定される真実がある」という落差が、この”涜神”に当たると見ていますし、作品中でもその意味で使われていると思います。

ただ、この涜神しているという感覚・主観こそが、ラブクラフト作品におけるキリスト教主観であったように思います。

奇異で未知なるものが存在する事そのものが「神を冒涜しているもの」と捉える感覚自体が、そもそもキリスト教主観です。日本的な宗教観からすると、「自身が信じていなかったのに認識してしまった、奇異で未知なる存在」も、やはり俯瞰的に見て自己宗教観の範疇に存在してもおかしくないものです。山奥に、今も地蔵で封印されている見た事も聞いた事もない不気味な何かが仮に存在したとしても、やはりそれは「そういうものがいてもおかしくない」と信じてしまう存在なのです。その対象がたとえ宇宙の外側にいても、やはり「いるかもしれないもの」でしょう。もし日本人が「神を冒涜しているもの」は何かと考えるなら、それはそうした神が居る領域を犯す同じ人間の事を考えるでしょう。「赤縄で封じられた森の封を切る」「地蔵の首を蹴落とす」「お供え物やお賽銭を盗む」「持ち出してはいけない品を持ち出す」etc… 跳梁跋扈する妖怪が、神を冒涜していると考える感覚はないでしょう。神と同じ類であると考えるか、あるいは互いに敵対していても全部自分達の外側にいる領域のもの、という感覚です。言ってしまえば、日本人には宗教主観がなく、最初から超越的視点しかなかったのです。

御大は自身の作品について、非人間的客観性を持って描写されるべき(≒超越的視点に立って描くべき)、と語っています。それと同時に、少なくともそうした超越的存在に対峙した作中の登場人物達の視点は、常に宗教主観(あるいは人間的主観?)に基づいて描かれており、作中の人間側から覗き込まれる主観だけが人間的なものであるべきとも記しています。「涜神的だ」と感じ、表現するのは、いつでも登場人物達の言葉や文字です。そしてこの主観の採用が、登場人物が発狂に至る心理への日本人の無理解につながっていると解釈して、今回の説明を書き上げています。

  1. 御大が意図的に宗教主観を登場人物に持ち込んだ?
  2. 御大が無意識に登場人物に自身の宗教主観を込めた?

当然、前述にもあるように明確な意図を持って登場人物に主観を与えていた事から、前者であったはずです。しかし一方で、そこには透けて見える当時のウィアード・テイルズ他様々な媒体を通してラブクラフト作品に触れていた「読者」があり、読者に読まれる作品であるために一人称としての宗教主観がなければならなかった事情は、多分にあったのだろうと推測できます。当時のラブクラフト作品の読者は限定的で、今のように各国言語に翻訳されて無数の価値観の元に楽しまれていた作品ではなかったので、「読み手の主観≒登場人物の立場の種類」が限られていたはずです。或いは、ラブクラフト自身が育ち暮らした環境の中で、こうしたキリスト教的宗教主観以外から超越的存在を観測した場合の視点を持ち得なかったのかもしれません。こうした執筆者が作品に取り組んでいた時代背景から、登場人物の主観が限定されていた事が伺えます。

登場人物主観がその当時のキリスト教的宗教主観に基づいていた事が、日本人がクトゥルフ神話(あるいはその作品群)に触れるにあたって著しく恐怖を感じたり発狂したりしてしまう理由が理解できない隔たりが生じた原因である、これが今回の一連のツイートで伝えたかった本来の主題です。ちなみに、現代的宗教主観に置き換えてみると、これについてはやはりまた違った評価が可能です。教派の違いもありますし、科学的視点との共存も広がっている昨今、現代のキリスト教徒が超越的存在に対し例外なく発狂するほどの精神的ダメージを受けるかは疑問です。ただ、これまで培われた教義が否定される形で旧来的信仰体系・権威への毀損が発生する事だけは、現代においてもあり得る話だと思います。

「作品自体は全て恐怖の対象を作者の主観から描いていたが、後にSFホラーとしての新しい観点が注目された」と表現した前述の評価は、こうした主観描写を伴ったラブクラフト作品が後に評価されていった過程における評価者視点(或いは後世の読者視点)からのもので、上記の隔たりを持った日本人に「そうした主観の不在があってもなお、日本人がラブクラフト作品を楽しめる理由」を説明するために、日本人の視点として用意した一文になります。

御大の作品中で恐怖を彩った数々のテーマが、御大の主観に依存していたものである事は周知の事実です。(海産物・黒人混血等) ラブクラフト作品で扱われる恐怖のテーマは、初期作品では旧来の一般的なホラーでも扱われるようなものや本人自身が恐れていたものから、後期に至るに従ってより不可解で未知のもの”宇宙的恐怖”へと広がっていきます。しかし、この扱われたホラー・テーマの多く(特に初期のそれら)が日本人にとって馴染みづらく、恐怖心を感じづらく、結果として「クトゥルフとかデカいタコ神でしょ、あんまり怖くない」というような感想が散見される理由だと思われます。これらは、ある特定の文化的主観に基づいて初めて恐怖心が醸成される類のものであると言わざるをえません。実際私自身にも、全く怖くないな、「宇宙からの色」や「時間からの影」に比べたらこんなの興ざめだな、とすら感じてしまったラブクラフト作品が幾つかあります。

作品で描かれる未知の存在への姿勢は常に非人間的客観性を持つべき、とした主張は持ちつつも、そうした作品群全体を通して”宇宙的恐怖”観が仕上がっていくまでの過程には、やはり御大個人の恐怖心から生まれたエピソードが多数存在し、そうしたものが最終目標への最初の足掛かりにあったように思います。また、宇宙的恐怖に至れたからこそ、ラブクラフト作品が様々な国で楽しまれるに至ったとも思います。宗教主観を持ちえない日本人にとっても”宇宙的恐怖”の描写が作品表現として魅力的に映るのも、描かれる恐怖の対象が初期の一文化主観・宗教主観から来る恐怖感を超えて人類主観全体から観てすら異質で畏怖すべき領域にまで昇華されているからだと感じます。

いわゆる旧来的な文化・環境・宗教などに根差した恐怖観を逸した、人類やその文明を取り囲む環境全体を軽視しうるような超越的存在、”宇宙的恐怖”が明確に作品世界に表現され、”宇宙的恐怖”の作品への表現完成に至ったのは後期作品群同士のつながり、あるいはその後の後輩達が体系立てていく過程で成立したものであり、作品初期から既に成立していたものではないと考えています。この「非人間的客観性を以てホラー描写に臨んだ」ことと、「客観的に”宇宙的恐怖”を描写した事が評価された」とは、後世からの評価においては意味に大きな隔たりがあり、後者を自身の手で為し得た最初の作家であったからこそ、ラブクラフトは後世に名を遺す作家になりえたと言えます。

ただ、少なくとも御大は早くから意識的にこの”超越的視点”に立って”超越的存在”を描こうとした作品を多く残しており、またそうした視点を明言していた事から、「作品自体は全て恐怖の対象を作者の主観から描いていたが、後にSFホラーとしての新しい観点が注目された」という表現を「ラブクラフト本人が、執筆当時に後期に至るまで超越的視点を一切意識していなかった」と解釈した場合においては不正確であり、間違った説明文になります。

なので、改めて誤解のないよう表現し直すなら、「ラブクラフト本人は、超越的視点・超越的存在の描写を意図しながらも、初期作品においては完全には為し得ておらず、その描写は評価されていなかった。しかし、長い研鑽の果てに、最終的に目標とした”宇宙的恐怖”観の境地の入口に達し、見事にそれらを作中に表現した。そしてその”宇宙的恐怖”観の成立と啓蒙こそが、ラブクラフトが後世に最も評価された点ではないか。私達日本人が、本質的にはその恐怖を理解せずとも惹かれ楽しめるのは、作品群が”宇宙的恐怖”の境地に至っているからではないか。」です。

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