この内容は、前回の訂正に続く、説明不足や言及していない点について補足するためのものです。この記事を書くにあたっては幾つかのエアリプ指摘を受けたために書いていますが、彼らに向けているものではなく、一連のツイートから興味を持ち、今これを読んでいただいているあなたに向けて、より深く説明をするためのものです。楽しんでいっていただけたら幸いです。
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日本人的宗教観vsキリスト教的宗教主観?
仮に宇宙を創生した上位者の実存が人類に判明した時、キリスト教信者はみんな拠り所への信頼を失って発狂するけど、日本人はいつも通り神社を建てて創生神祭りで神輿を担いで困った時に創生神を拝んで創生神の萌え絵を描いて創生神をモチーフにしたゆるキャラを作るよね。日本人はそれでいいと思う。
このツイートには説明不足な部分があります。前記事を読んでいただいた方にはわかると思いますが、ここで言う「キリスト教信者みんな」はラブクラフト作品に登場し一人称で物語を進める語り手達の事であり、即ち執筆当時の読者達が持つ一般的な主観です。
つまり、「当時のキリスト教徒と比べて現代の日本人は」という観点からの指摘ですが、作品が常に持つキリスト教主観が前提にある事が説明されていないこのツイートだけからでは、今のキリスト教徒でも例外なく発狂してしまうと捉えられるツイートになってしまいました。
現代のキリスト教徒の多くは、そこまで強く教義や信仰に依存しておらず、科学的知見も深く、情報化社会の影響で多様な価値観にも触れており、日本人と変わらない未知の存在に対する寛容さを持っている人がほとんどではないでしょうか。(勿論教育環境次第なので全ての人がそうではないでしょうが)
ただ、それを踏まえても、現代の日本は現代のキリスト教徒以上に、宗教主観に依存した過去がそもそもない 或いは 古すぎて伝承されていないため、現在のキリスト教圏以上に未知の存在への心理的障壁は低いものと思われます。また、キリスト教圏では若い人でも日本とは比較にならないほど旧来の教義信仰の在り方に深く触れる機会が多いと推察できるため、思想そのものを自身が抱く事まではなくとも、作品で登場人物が対峙する脅威の本質をより深く知る機会を今も持っていると思われます。そういう意味で言えば、今でもキリスト教主観的恐怖の理解は、今でも現地の人々の方がより深められるでしょう。
宇宙的恐怖にキリスト教は関係ない?
この指摘は非常に多かったです。この指摘は、半分は正解ですが、半分は誤りであると考えています。
宇宙的恐怖という概念への恐怖感は人類普遍のものであり、特定の文化や宗教・環境に依存せずにあらゆる人々にとってその安全と信仰を脅かす恐怖として映る全く未知の存在です。
これに対して、特定の宗教主観から見た恐怖感からのみ、その存在がもたらす恐怖の本質が得られる、という捉え方で言うとこれらの指摘は正解だと言えます。
しかし、「ラブクラフトが作品に描いた宇宙的恐怖に対峙する登場人物の心理」を説明する上では、全くの無関係ではない、という事になります。
最終的に出来上がった宇宙的恐怖とその体系は、主観とは無関係の存在です。ただ、宇宙的恐怖を描いたホラー作品としての登場人物が狂気に至る経緯は、あくまで人間の主観であり、そしてラブクラフトが描いた主観はキリスト教主観です。”冒涜的”という表現が随所で行われ、未知の存在によって自我が崩壊させられるという心理的経過は、キリスト教主観のそれであり、少なくとも日本的宗教主観からは起こり得ないものです。そもそも、宗教主観とは無関係に恐怖感が呼び起されそれが登場人物を苛んだとしたら、それは対象に対してただ漠然とした恐怖感・圧倒感を感じるのみで、”冒涜である”という感覚に至る事はありえないはずです。
この、ラブクラフト作品で特徴的に幾度となく用いられる「冒涜的」という言葉がキーワードで、これがラブクラフト作品が宇宙的恐怖に対して主観者が抱きうる脅威の表現手法であり、また同時に日本人的宗教主観からどうしても理解できない恐怖感のズレの正体です。日本人には「冒涜的」がわからない、だからラブクラフト作品における登場人物が宇宙的恐怖のどこにそれほどの恐れを抱いているのか、本質的には登場人物と同じ感情を持ちえない、という事です。
観測者ごとに、その観測者の立場に応じた恐怖が、宇宙的恐怖に対して起こりうる。その上で、原典たるラブクラフト作品においては、その観測者の主観はキリスト教主観であった、という事が見て取れます。宇宙的恐怖側の本質は、観測者によって変動する事は一切なく、変動するのは観測者側の立場と感じ方です。
宇宙的恐怖に対してキリスト教主観を前提に語る事が無意味と唱える方の主張は、あくまでこの「観測対象たる宇宙的恐怖そのものの脅威の本質は、特定の宗教主観に捉われるほど矮小なものではない」という恐怖対象にフォーカスした主張で、私の「日本人がラブクラフト作品の登場人物が宇宙的恐怖に対して抱いた恐怖感の本質部分を汲み取れない」という主張とは、観測点の違いだけであって両立するものです。
ラブクラフト亡き後、後身によってさらに広がっていった宇宙的恐怖の世界観は途方もない大きさに膨れ上がっていき、そうした全体の体系から俯瞰してキリスト教主観を語ってしまうと矮小な観測点に過ぎないですが、一方でその原典が扱う表現の起点に宗教主観からのものがあった事も、宇宙的恐怖を理解しようとするアプローチの上で必要な情報です。前代未聞の脅威に触れた時、人間がどのような心理に陥るか、ラブクラフトは最初の前例を作ったのです。
クトゥルフ神話TRPGでの”主観”
この章は、いわば”余計なお世話”で、ラブクラフト作品との触れ合い方とは全く別の話なので、読み飛ばしてもらっても構いません。
クトゥルフ神話TRPGをプレイする上で、宇宙的恐怖に接するPCがどのような狂気に陥るのか?それは、前述の観点から言うと、PCの立場に応じるはずです。
例えば、2010年代日本を舞台に、20代の青年が宇宙的恐怖に接した時、冒涜的な真実に触れた事により信仰が揺らいで自己の拠り所を失ったというショックを受けるでしょうか?逆に、20世紀初頭の閑静なアメリカに暮らす敬虔なクリスチャンである探偵が、悪の教団が秘匿していた宇宙的恐怖に接した時、「血が出るなら殺せる」と冷静にトンプソン機関銃を乱射して殺す選択肢を取るでしょうか?
勿論TRPGはプレイヤー間のコミュニケーションのゲームなので、コミュニケーションやコミュニティが目指すゴールを蔑ろにしたプレイは推奨できません。ただ、仲間が許す限りロールプレイのリアリティを追及する上で、登場人物が普段何を信じ、何を求め、何を失う事を恐れているのかを元に宇宙的恐怖に対峙した登場人物が陥る狂気の在り方に迫ってみる事で、興味深いアプローチを生み出せるかもしれません。
ラブクラフトは「冒涜的真実」への接触によって「信仰の揺らぎ」「正気の喪失」というひとつの前例を提示しましたが、宇宙的恐怖に触れた主観の立場によって、発する狂気の形は様々であるべきでしょう。