君主制都市国家が乱立した崩壊前において、税理士はどの国でも見られた一般的な職業であった。
大衆に限らず学問を履修できなかった多くの市民は数字計算に疎く、またそのために納税額を誤魔化す者は後を絶たなかった。
数学と対人交渉に秀でた税理士は、税務を取り仕切り健全な国家財政を担保する正当な要職で、その権限は最大のものになると政務を携わる大臣に匹敵した。
しかし、税金とは、統制・管理された大規模な社会においてのみ成立する高度なシステムである。
国家が崩壊した今、限られた小規模のコミュニティには、税の概念そのものが存在しない。
当時は羨望と畏怖の対象となったその技術と才能は、力が支配した世界になった今、その価値を持たなくなった。
或いはその立場によっては、かつての徴税に対する不当な反感が、生き延びた税理士達に向けられるような事も、あったかもしれない。
灰色のどんよりとした空が、二人の男を見下ろしている。
白髪を垂らした老人は、懐からキセルを取り出すと、遠くを見やりながらそれを吹かし始めた。
「ジョセフとやら… お前さん、あそこで何をしていた?」
剣を携えた青年は、胸を張って答えた。
「育ての親が、この街にいた。私が修練のために離れているうちに、ここも滅びてしまった…」
キセルを持つ手が止まり、顔をジョセフへ向ける。
しかし、彼の顔は曇ってはいなかった。
すでに振り切ったのか、最初から覚悟していたのか。
ゴードンは何かを逡巡し、再び顔を背けてキセルをくわえる。
「…まだ見つかってないのか?親御さんの亡骸は」
「いや… 覚悟はしていた。きっともう生きてはいまい、と。ただ、せめて集落の人々を弔おうと」
「…そこで俺らと、あの忌々しい昆虫どもに出くわしたわけか」
思い返すだけでも怖気が走る、あのキリキリと不快な羽音を立てて忍び寄る虫どもは、一体なんだ?
話に聞く、疫病を撒き散らす害虫としても、まさかそれ自体が人を襲い喰らうとは。
「最近、爆発的に数を増やしているらしい。あちこちで退治したが、むしろ増える一方だ」
「そりゃあ良い事を聞いちまったな」
ゴードンは皮肉を言うが、ジョセフは笑っている。
「アンタもこの街から、いや、あの湿地帯から離れた方が良い。」
「あの… ウォルトランド湿原の事か?」
「名前は知らないが… 疫病の蔓延、動植物の異常な肥大化、そのすべての元凶が、あの湿地帯のどこかにあるとか、ないとか」
「ずいぶんと曖昧だな」
「全くだ。魔術師の言う事は、俺にもようわからん。ただ、そうに違いないという事だけはわかるそうだ」
知人がいるのだろうか。
ゴードンにも全く魔術の心得がないわけではない。
間接的な調査方法となる魔法も、いくらでもあるだろう。
「そういうお前さんはどうするんだい、死者を弔うためだけに、あの虫相手にまたちゃんばらでもしてくる気か」
「…形見の指輪がある。私を置いていった実母らしき女が、赤子だった私と一緒にカゴに入れていたものだ。おそらくはまだ、義母の手の中だ。絶対に取り戻したい」
指輪。
商人であれ盗人であれ目利きであれ、物を扱う者には、特有の物に対する鋭さを持つと言う。
ゴードンの脳内で、何かがつながる音がした。
収奪品を収めた袋を腰から降ろし、袋をまさぐって、その中からひとつの瓶を取り出す。
その中には、鈍い煌めきを内に秘めた小さな宝石があしらわれた、他に飾りのない質素な指輪が入っている。
「…!」
ジョセフが立ち上がり瓶を持った手に掴みかかりかけて、そこで手を止め、腰を下ろし直す。
ビンゴ。
だが…
「それを、譲ってもらえませんか」
強い衝動を抑えて、静かな調子で呟く。
言葉を選ぶか。
素直に渡すか。
拒んだら、どうなる?
怪物を蹴散らすほどの怪物相手に、断れるか?
しかし、これは戦利品だ。
くださいと言われて、はいわかりましたで誰かに与えてしまっていては、この仕事は成り立たない。
今日ここでそれを許す事は、明日以降のすべてで、それを許していく事になる。
それは、今この場で縊り殺されるか、日を重ねて少しずつ殺されるかの違いでしかない。
「譲れぬ」
様々な意味が含まれていた事を、ジョセフが理解できたかどうかは定かではない。
固くこわばった表情に、さらに皺が増えるのを見た。
一触即発と思われた。
だが一方でゴードンには、打算的な閃きが生まれていた。
「100枚だ。値切りはなしだ。それで手を打とう」
相手によっては、最悪手である。
こちらは棒きれ一つ、無防備とそう大差ない。
一瞬で首の骨をへし折られて、残りの戦利品と共に奪われても何もおかしくはない。
だが、ゴードンは、それまでに垣間見ていたジョセフの真摯さを信じ、賭けに出た。
「…わかった、払おう」
「奪わないのか?お前さんの実力なら、こんな老人一捻りだろう」
敢えて煽る。
「わかっていて聞いているだろう、俺がそんな事を望んでする人間ではないと」
ジョセフは苦笑した。
ゴードンは賭けに勝った。
表面上は平静を装ったまま会話を続けていたが、内心では安堵のため息をつく思いだった。
そうとも知らず、ジョセフは一層砕けた様子でゴードンに語りかける。
「払いは少し待って欲しいんだ」
「何だ、前払いは受け付けんぞ」
「いや、そうは時間はかからん。ちょうど仕事を請けるところなんだ、その前金から出そう」
「出るものが出るなら、こちらは構わん。依頼人の場所まで、同行しても?」
「あぁ。そいつは死体漁りにも寛容だ」
ジョセフはニコリと笑ったが、ゴードンは真顔だった。
廃墟からやや離れ、広大な沼地の凹凸した岩場の影に、木の枝と布切れで作ったテントが集まった、小さな集落を見出した。
日の当たらぬそこは、湿気と臭気に晒されはするものの、外部からの発見を妨げる隠れ家としての機能は優秀な部類であった。
ゴードンは、ジョセフの手を借りながら階段状に切り抜かれた崖を降りていく。
「すまんな… 手間を掛けて」
「指輪のためだ。アンタも金のためだろう?気にするな」
本当に指輪のためだけなら、こんな事せずに済むやり方はいくらでもあるだろうに。
ゴードンは、心の中でそう呟いた。
崖を降りきると、岩に腰掛けていた一人の女性がこちらに気づき立ち上がり、歩み寄ってくる。
「依頼人か?」
「いや、協力者だ」
女性は無言のままつかつかと歩み寄ると杖でジョセフの胸部を小突いて毒づき始めた。
「遅い!もう少し時間を守るって事を意識したらどう?」
「虫が出たんだ、仕方ないだろ…」
「そっちは誰?」
女性の顔がジョセフの肩越しに覗き込む。
特徴的な、尖った耳と、白い肌。
エルフも、かつては珍しいものではなかった。
だが、今こうして社会が分断された状況においては、出会う事も稀になっていた。
「ゴードンさんだ、死体漁りの。母の指輪を見つけてくれた」
「死体漁りィ?」
女性の顔が引きつる。
「おい、ビアンカ、お前もちゃんと名乗れ」
「なんで?私が?ゴミ漁り相手に?冗談でしょう??私の半径5メートル以内にその爺を入れないでよね、匂いが移るから」
…かつての社会において、エルフのこの高慢な態度も、決して珍しいものではなかった。
「お、おい… すまないゴードンさん、アイツホントはそんな悪い奴じゃないから…」
「気にしていない、蔑みを受けるのは日常だ」
むしろ、一人の人間として丁重に扱うゴードンの方が、現代においては異常だ。
「いやしかし、我々からしたら、さらわれた人達に出すお金なんです。帰って来てもいないのに、前金で半額、はちと多いと言いますか…」
「ですから、準備にも金は要るわけで…」
一向に進まない会話。
ジョセフの懸命の説得にも、耳を貸そうとしない。
恰幅の良い依頼人の男は、出会い頭の愛想こそ悪くはなかったが、利己的なその内面が透けて見えた。
隣のテントで待たされるゴードンとビアンカは、気まずそうに互いに別の方を向いて座っている。
「長引くねぇ」
「……」
「…お嬢さん、アンタも加勢して話をまとめて来てはどうだね」
「言っとくけど、私300歳超えてるから」
「人間はね、女性は見た目よりも若いものとして扱ってあげるもんなんだよ」
「…ああいう話、嫌いなの。いつもジョセフの仕事。アイツも、得意じゃないみたいだけど」
ビアンカはそっぽを向く。
ゴードンは大きくため息をつき、立ち上がると、話し合いの場である大きなテントに身を入れて言った。
「ジョセフ!帰ろうぜ。ここで仕事しても割に合わねぇ」
「!?」
依頼人とジョセフが、驚いたように同時に振り向く。
より一層驚いたのはジョセフだ。
「な、急に何言ってんだ、ここでの前金で…」
「こういう業突く張りは死ぬまで変わらん、どうせ後金もごねるぜ」
「なに…?!」
依頼人の顔が、表情そのままに赤らむ。
ゴードンは続ける。
「誘拐された人達の事を思えば、全額前金出したって安いもんだっての。どうせこいつの考えている事は、村人相手の面子だけだぜ」
「ぶ、ぶ、侮辱する気か」
「ゴードン!」
「良いんだよジョセフ、ここでの仕事はなしにして、もっとでかい集落に行こうぜ。この集落に、全額払えるだけの金はない」
「なに?」
ジョセフが訝り、顔をしかめる。
「外を見たか?居住用と、栽培用のテントだけだ。交易用のスペースすら設けられていない。この集落は、外との交易をしていない。そんなトコにある金なんて、崩壊前に残されたへそくり程度だ」
ジョセフは黙って聞いていたが、依頼人の表情に明らかな焦りが見え始める。
「ほっとけほっとけ。どうせ他の冒険者が代わりにやってくれる仕事だ。こんな厳重に隠された集落に足を運ぶ物好きが、ジョセフ以外にいればだけど」
「わかった!前金を払う!」
依頼人が吼えた。
ジョセフはまるで曲芸でも見せられたかのように目を丸くして、依頼人とゴードンを交互に見やる。
「全額前金。でなければ仕事はなしだ」
「…わ、わかった。私の、蓄えがある…」
そう言って、依頼人は悔しそうに歯ぎしりしながら、腰掛けていた椅子の下から薄っぺらいカバンを引き出し、その中に入った貨幣の袋を投げてよこした。
「かっこつけんな、へそくりって言えよ」
ゴードンは歪んだ笑みで勝ち誇ると、テントから出ていった。
ジョセフはそれを追い、ゴードンの肩に手をかけた。
「おい、ゴードン、アンタ…」
「ジョセフ、お前は足元見られてんだよ。アイツラが頼れるのはお前だけなんだ、もっとしっかりしろ」
ゴードンは目をそらさず、渡された袋の中の貨幣を一枚ずつ取り出しては指先でこすり、偽造貨幣の確認をしている。
「ゴードン… アンタ、すげぇな」
「は?」
「俺じゃ前金も貰えなかった、と、思う… だから、アンタはすげぇよ、マジで」
「こんなのフツーだっての、商人の基本だ、俺が税理士だった頃は…」
そう言いかけて、ゴードンは口をつぐんだ。
「…”ぜいりし”ってなんだ?魔術師の一種か?アンタ、魔法使えんのか?」
「なんでもねぇ。ほら、さっさと仕事を終わらせんぞ」
「え?でも、前金があれば、指輪は…」
漫然と、それでも賢くは生きてきた。
決して賢明ではない選択。
ここで金貨100枚で去ってしまえば、安全だし、確実だ。
袋の中、およそ千枚は詰まった貨幣の袋。
リスクは避けるべきだし、避けて生きてきた。
こんな事をする意味なんて、あるのか?
自分でもわからない。
ただ、心の中で何かが燃えるような感覚が、数十年ぶりに、灯った気がした。
「まぁ、堅い事言うなよ。あそこでしゃしゃり出ちまった以上は、もうこいつは俺も乗った船だ。この仕事、手伝わせてくれ」
~つづく~
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸い
です。