「クラウス君、目を覚ましたのか」
部屋に入ってきた男は、私を見て驚いたように何度か目を瞬かせたものの、何故だか哀し気に呟いた。
私は違和感に戸惑い、手に持っていた日記と男を交互に見た。
「ああ、その手帳をどこに置いたのか忘れていたんだ。ここにあったのか」
「……あなたの持ち物、ですか……?」
「そうだ、儂の日記だ」
ほんの少し前、あのヴァルター博士の問診の際に見た写真よりも随分老け込んでいる。異界の研究に邁進し、狂人とも称された男にとっても、ここでの調査はそれだけ堪えたのだろうか。
「マティアス、博士……」
「どうしたんだい、クラウス君。まるで幽霊にでも会ったような顔をして。まぁ、何日も寝ていたんだから、当然か」
「その……失礼ながら、マティアス博士は死んだもの……かと、思っていたので……」
それに、手にしている手記は、まるで遺書のようだった。ヴァルター博士も私だけが生き残ったのだと話していたはずだ。
しかし、やっぱり、でも……こうしてマティアス博士は私の目の前に立っている。
「そうだな……儂も助かった時は、信じられなかった。君は仲間を失いすぎた。なおさらそう思ってしまっても可笑しくはないな……」
マティアス博士の面差しは好々爺としていたが、その眼差しは無遠慮だ。私の目をじぃっと見てきたかと思えば、全身をさっと確認する。人当たりの良さそうな笑顔と、その目に起因する不気味さが、『研究に邁進する狂人』と評される所以であるように思えた。
しかし、私は記憶の一切を失っていて、今目の前にいる男が散々聞かされてきたマティアス博士かどうかは本当のところは分からないのだ。写真を見ていなければ、マティアス博士だとは思わなかっただろう。ただつい半刻ほど前に吹き込まれた、ただの知識として知っているだけに過ぎなかった。
「しかし、思ったよりも顔色がいいようだ」
「私はもう、何がなんだか……」
マティアス博士の表情からは何も読み取れない。深く眉間に刻まれた皺と、全く血の気の引いたその顔はまるで幽鬼の類だ。
「どうだい。体の調子は」
「それよりも……あなたはどこから……本当に生きていたのですか?」
「死んだようなものだ……。我々の想像を超えていたことが起きた……いや、儂は過信していたのだろう、自分たちに、そして、この幸運に」
「幸運?」
自分の声が震えるのが分かった。
監視室から続く中庭は、小さな運動場ほどの広さだった。その中央に突如存在する門は、明らかに異質で――そして、どこかマティアス博士の持つ妖しさと共通する何かを感じさせる。
「あんなことに加担させておいて……」
「加担? モニカ君も君も、救助には賛成していたではないか。君たちは仲間を助けるため、探したいと言っていた」
「分かっていたんですよね、あの門の向こうに何があるか、そしてその門をくぐれば、どれほどの危険が待ち受けているかも」
「いいや、分かっていると信じていただけだった。儂の想像以上の脅威が……そこには広がっていた」
マティアス博士の顔に浮かんだ苦渋の色は、嘘ではないように思えた。
私を見ながら、小さく頭を下げる。マティアス博士の握りしめられた手は震えていた。
顔を上げて下さい、とはどうしても言えなかった。
「異界に君たちを連れて行ったのは儂の責任だ。テオが消え、君たちは儂の先走った突入行動に賛同するだろう、と……仲間を守ろうとする気持ちに付け込んだのだ」
より深く、マティアス博士の頭が下がる。
「すまない」
「本当に私たちの他は、助からなかったんですか!?」
顔を上げ真正面から見据えたマティアス博士の顔は、写真と比べても随分と頬を痩けさせていた。
「恐らくは。ヴァルター君とともに監視所で待機していた医療補助スタッフ以外は。ともに異界へ向かった仲間は戻っていない」
「嘘だ……」
モニカは監視所にいるはずだ。
「同行者にはモニカ君もいたんだ、君が信じたくないことは分かる……」
「そんな安っぽい同情が欲しいわけじゃない! 真実が知りたいんです」
「真実……。可哀相に、あれだけのことがあったのだから、錯乱もするだろう」
私は弱々しく首を振る。憐れむようなまなざしが我慢ならない。
何かがおかしい気がする。辻褄が合わないではないか。これも壮大な実験の一部なのではないか?
ただ、少なくとも門は実際に存在している、その赤黒い――まるで何かの内臓のような赤黒い世界を覗かせ、緩やかに鳴動している。
「ここは今、閉鎖してもらっているが、まだ完全に問題が解決した訳ではない」
「助かったんですよね? 少なくとも、我々は…」
「――……君だけだ」
私は無意識に首の後ろを撫でた。確かに、縫合のあとがある。
マティアス博士は目を細めて、苦笑した。
「申し訳ない。ただ、大丈夫だ、きちんと調べた。まぁ、傷は残るかもしれないが、命より大事にすべきことではないだろう?」
「あなたは、一体何を目指したんだ……」
「門の向こうだ。君は異界をどう考えていた?」
私はどう答えていいか分からず、黙り込んでいた。それを見て彼がどう感じたのか分からないが、マティアス博士は肩をいからせて口を開く。
「儂から見て君は異界を『得体のしれない災害』としてしか見ていなかった。儂に門を閉じるための知恵を貸して欲しいと! あの門がどれだけ貴重なものか理解していなかった。これほどの学術的に貴重な事例が目の前で展開しているのに、隊の誰一人、その可能性を直接調べたいと申し出る者はいなかった。儂は異界を調べたかった。そして、そこにある大いなる真理に触れることこそ、儂の積年の夢だったッ!」
懺悔した口で、今度は少年のように無邪気に語る。彼は私を馬鹿にしているのだろうか。
「真理を目指す者、研究者ならば誰もが突き当り、悩む事だ。全てを投げ売ってでも一歩前に進むか、否か。多くの者は進まずに一生を終える。儂は進むことにしただけだ。その瞬間、儂は後先を考えることは出来なかった。今なら行けるのではないか、と。門はそこで儂を誘うようにずっとあるのだから。ああ、そうだ、前に進む理由が欲しかったのだ、儂はきっと……」
そこまで饒舌に語っていたマティアス博士は急に黙ると、よろよろと動き始めた。そして、小さくうめき声をあげて、壁にもたれ込む。
「博士?」
医者として身についていたはずであろう知識と技術がもしも頭か身体のどこかに残っていたのなら、私は何かしらできただろうが、何も思い浮かばないまま壁を背に座り込んで膝を抱え、呻くマティアス博士を見つめることしかできない。
「儂は戦力が……丸太が多い方が良いと願った、健康な男女がどうなるのか、……何度あの日に戻っても、儂はこの門をくぐっただろう、テオという青年の失踪は導きでしかなかった」
「博士、顔が真っ青だ、ソファで休んで……」
「触ってくれるな!」
突然投げつけられた鋭い声に、私の上げかけた手はびくりと凍り付いた。
「乳母に襲われたのだ。その時に、儂は肉片を植えられた」
儂は。
つまり、私はやはり無事ということなのだろうか。分からない、手帳にも私は肉片を受け付けられていなかったと記されてはいたが…
「この肉片が君に感染しないとも限らない……ましてや、門の内部に足を踏み入れなかったその他の人間まで巻き込むわけにはいくまい。これは儂の問題だ」
「摘出すれば、可能性はあるのでは?」
「もう、遅いのだ」
額に浮かんだ脂汗を拭いつつ、マティアス博士はぐっと唇を引き結んだ。
私を見て笑おうとしたのか、不自然に歪んだ表情を浮かべた。それから、諦めたように告げた。
「儂はけじめをつける。異界をここまで招き入れたことへの責任を取るのに、これしか考えられない」
博士の視線の向こうには、変わらず禍々しい気配を放つ門がある。
「後のことは君とヴァルター博士に任せる。必ずや、ふたりで、あの門を封じろ。よいな」
「ちょっと、待ってください」
マティアス博士がふらりと、たたらを踏むように動いた。私は慌ててその手を取った。行かれてしまっては困る。まだ何も分かっていない。ヴァルター博士は信用できない。あなただけだ、今の私が頼れるのは。
「門に行く気ですか」
「異界の物を異界に帰す。それだけだ」
「生きては戻れません!」
「肉片の影響が、いつどのような形で出るか予想もできん。……時間がない」
「しかし!」
「君は赤子の異界に足を踏み入れ、唯一無事帰ってこられた人間だ。門の向こう側で見たおぞましき真実を伝えて、君がヴァルター博士達を導くのだ!」
そんな! 私は何も記憶がないのに……!
「マティアス博士、あなたこそが必要です」
「君が、あの門を閉じる鍵となる」
「あなたの知識が必要なんです!」
掴んでいた私の手は、縋るように形を変えた。
私の必死の懇願に、マティアス博士は眉を下げて難しそうな表情を浮かべて黙りこんでいる。
沈黙の時間は酷く長く感じた。
マティアス博士は首を振り、丁寧に私の手を、手首から離させた。
「すまない」
「博士!」
今度は指先が届かなかった。踵を返したマティアス博士の白いガウンが翻り、一瞬視界から門を覆い隠した。
マティアス博士は中庭に続く扉を押し開け、外に飛び出した。
人の背丈の2倍ほどはあるだろう門は、歓喜するように光を増し、駆け込んでくる博士を迎えるべく赤黒い肉たちはぐわりと空間を開ける。
「そんな……」
すぐにマティアス博士の姿は赤黒い肉壁によって見えなくなった。
私はよろよろと座り込む。
監視室から門を見つめたまま、しばらく動くことが出来なかった。博士は行ってしまった。あの門の向こうに行ったのならば、もう帰ってくることは出来ないだろう。
追いかけることは、出来ない……。
考えるだにぞっとする。込み上げてきた恐怖に身体を抱える。記憶などなくとも、あれが邪悪なものだと子供でも分かるだろう。資料で見てきた異質なものどもが、あの門の向こうに鎮座しているのだ。
門の向こうで部隊が壊滅したのは確かなのだろう。私はひとりきり、この監視室に残されてしまった。
まるで、悪い夢を見ているようだ……。
頭がひどく重く、ソファに頭をもたれさせる。
手帳を読み返す気力もなかった。ヴァルター博士と残されて、私が異界に対して何ができるというのか。
――ブ、ウ―――……ウウン……――。
耳の奥で音がする。どこかで聞いたような音だ。
苦しい……分からない……知るべきなのか?
私をこの苦しみから救ってくれるというのなら、私は悪魔にでも魂を売るかもしれない。だが果たして、真実を知った先で、この苦しみから逃れることはできるのだろうか。あの門の向こうにいた乳母は一体何をしようとしているのか、何を望み、何が目的なのか……。
マティアス博士は何を知りたかったのか。
ヴァルター博士が恐れたものは? 異界なのか、自らの権威を脅かすマティアス博士か……。
ピチャリ……粘着質な水音も聞こえる……ピチャリ……。
どこからだ。
門ではない、近いがどこか分からない。
私は怯えて周囲を見回す。何もない、何かを知るすべもない。思い出せない、焦りばかりが繰り返される。
ドクリドクリ、早鐘のように打つ音の度に、こめかみに鋭い痛みが走る。
「ぐ……ッ」
痛い。
痛い?
この痛みの正体は、何だ……ドクリ……ドクリ……。
「痛い……苦しい……」
混乱が、許容範囲を超えている。
ただ、明確に浮かび上がってくる言葉もいくつかある。
――……乳母に襲われたにも関わらず肉片を受け付けられずに返された自分には何かしらの意味があったのだろうか。先程博士が消えたばかりのその門は、今は大人しく鎮座している。
あの肉の空間の向こうに入り込んだマティアス博士はまた吐き出されるのか。
私はまた、首の後ろに手を当てる。切開しても、ここに腫瘍はなかった? 本当に? 2人が生きて戻り、そのうちの1人は感染していないなんて都合がよすぎるのではないか。
私に植え込むことが出来ない、もしくは、そうしない理由があったのだろうか。
けれど、マティアス博士は自分だけが感染したと断言している。
記憶がない、異界に行ったかも理解できない。けれど、この頸の縫合の痕は新しいものに違いない。
どうして異界から戻って、マティアス博士だけ記憶が保持されているのだろうか?
まさか、そのときの私は記憶と引き換えに乳母と何か取引でもしたのだろうか。仲間を見捨ててでも助かるために?
乳母はどうしてこんな山奥に異界の門を開いたのか。それとも、そもそも門は乳母の意志や異界の意志とは関係なく開くのか。
何も分からない。
じっと門を見つめていても憶測ばかりが浮かんでは消えるが、答えが出てくる事はない。
「……どうして、マティアス博士はまた、異界へ……」
責任を取ると言っていたが、マティアス博士だけが異界に去ってしまっても、何も解決はしないのではないか。
後の事は、記憶を失った私と異界行きを反対したヴァルター博士に託された。死んだのではないかと思っていたマティアス博士が生きていたが、モニカは?
彼女はどこにいる? あの声は、どこから……?
自分はどうするべきだ、何が真実か確かめねば……マティアス博士も生きていたのだから、モニカが生きていることも十分あり得るだろう。
他の部屋に隠されている? ほかの部屋を探そう。
信じられるものはなんだ……?
背後でまた、ドアが開く音がした。
「こんなところに……――」
呆れたような声音で、妙に背の高い不気味な博士――ヴァルターが立っていた。
~つづく~
原作: ohNussy
著作: 森きいこ
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸い
です。