第33話 『旧き世に禍いあれ(1) – “菌の森”』 Catastrophe in the past chapter 1 – “Fungus forest”

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 森、と呼ぶべきだろうか。

 遠くから見れば、その青さは豊かな植生を想像させ、様々な生命をはぐくむ豊かな森に見えるが、その実、その森は『森』以外の命を拒絶している。

 木々の代わりに、複雑に組み合って伸びた菌糸が、樹木のように空に向かう。梢である部分も、まるで寄せ木細工よろしく噛み合い、その様から想像するよりも酷く凍てついている。

 光の射さない森を、人は畏れ、近づく者はない。

 かつて、近づいたふたり組がモンスターに襲われた。からがら逃げた片割れが言うには、馬ほどの大きさのカマキリに襲われて、仲間は頭から食べられたという。その男自身も背中に大きく斬りかかられた痕があり、傷こそ浅かったがその日のうちに死んでしまった。近づけは呪われる、魅入られる、毒にやられる、様々な噂が立った。

 近隣に住む人々に場所を尋ねても、露骨に嫌がられる。森への案内人は見つかることない。

 菌類は、世界で一番初めに繁殖し、世界を覆い尽くした生命であるとされる。その生命力の強さは人間の想像をはるかに上回る。彼らは何らかに寄生し、共存すること、または乗っ取って成長することで繁殖を遂げた。「菌類が森を形成している」と聞いた時、フィリップは当然のように、実際の木に寄生した菌が、木の表面を覆い尽くしているのだろうとだけ考えていた。

 しかし、実際には、木々などを必要とせず、菌だけが独立し、成長しているという異常な環境だった。

 足元も完全に苔むし、通常の森の数倍の高さまで伸びた梢までを見上げる。

 完全に光を遮った空間には、ところどころに白いふわふわとした胞子が舞っていた。

 胞子を防ぐためにつけた顔を覆むマスクを通した、不気味で低く掠れた呼吸音は、そして規則正しく響く。菌糸が絡まり一本の巨木となる、それが真っ直ぐと空へ伸びる柱の間を、ゆっくりとふたつの影が歩いていく。彷徨っているわけではない。その歩みからは向かうべき先へと向かう意思が見受けられるが、広大な森と道を遮るほどの菌の巨木に翻弄され、緩やかに歩く軌道は大きく蛇行していた。

 この森の来歴は、古い神代にまで遡るとされていた。

「……仮説通り、本当に神が眠っていると考えてよさそうですね」

「ああ、そうだろうな」

 自死を選びこの森に入る者もいるという。それほどに深く、広大だった。

 屍術師のフィリップとグレーテルは、無表情で淡々と歩き続けていた。

 グレーテルが時折、歩みを止めては自身の側頭部に手をやり、目を細めて集中した後、遠くを指差す。精霊の濃い方角を探って向かうべき先を先導し、フィリップがそれに続く。

「何百年、いいや、何千年の時がここの中では流れたんだろう」

 数十メートルもの高さまで伸びた菌で出来た木をグローブ越しに触れてみたが、しっかりと堅い。強く押してもしなることもなく、力強く根付いた感触が返ってくる。

 フィリップは傍らのグレーテルを見た。彼女も顔を覆うゴーグルと、分厚い防護服や手袋、安全靴など、肌を一切露出せず、まるで奇妙な人形のように立っている。ゴーグルの奥にある瞳だけは、以前と何ら変わらず、知的な光を宿してこちらを見つめ返してくる。

 着ぶくれして奇妙な人形のような姿をしているのは、フィリップ自身も同じだ。

 何も身に着けずにここで呼吸をすれば、1分と待たずに肺から蝕まれて死ぬだろう。装備を揃えるために訪れた集落の古道具屋で出会った古老は、皺がれた声でそう告げた。そして、全ての装備を見繕い直す2人を尻目に、白く濁り始めた目で「あの森は捨てておくしかない」とはき捨てるように言って、店を去った。

 どれだけ歩いただろう。古老がいた集落から二日歩いて、菌の森の入り口にたどり着いた。森の入り口には当然、柵も、看板も、遊歩道のようなものさえない。獣道と思しき菌木と菌木の間隙を縫うように進み、ようやく分け入った。

 不意に、菌糸の枝と枝が擦れるような不自然な音が聞こえた。

 フィリップが斜め後ろを振り向くと、グレーテルの背後に、蔓が垂れ落ちている。粘膜で奇妙にてらてらと光る蔓が、ゆっくりと猫の尻尾のように先を揺らす。

 フィリップの背中が一瞬で粟立つ。

「グレーテル!」

 フィリップの叫びに、グレーテルも弾かれたように振り向き、その手を翳した。一瞬の間の後に青い炎が見え、フィリップは舌打ちをした。

「駄目だ!」

 叫びながら、フィリップは手を横に一閃した。

 蔓を焼き尽くさんとグレーテルの手から放たれた炎と、その先でグレーテルを襲おうと先端を食虫花の花弁のように広げた蔓が、澄んだ音を立てて凍り付く。

 ――これが、噂に聞いていた菌の森の怪物か……。

 見上げて注視すれば、そこここに蔓が伸びている。全ての蔓が同個体なのか、異なる個体同士が無力化された仲間の様を感じ取ったのか、するすると蜘蛛の子を散らし、逃げていくように去って行った。

 あれらは強酸性の粘液を持ち、骨をも溶かすと言われている。

「ここでは炎は使うな。分かるだろう」

 フィリップの声に、グレーテルは少しの間立ち尽くしていたが、ふいと顔を背けると、露骨に不機嫌そうな足取りで、フィリップを置いて歩き始めた。

 その背中を追いながら、フィリップは深い溜め息をついた。

 ここは『森』だ。ましてや梢に当たる部分は組み合わさっている。一旦火が付けば、どこまで延焼するかも分からない。

 この先に待ち受けるものが、その炎に焼かれてしまうようなことがあっては、元も子もない。

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 しばらく進むと、菌糸の種類が増えてきた。相変わらず空を覆う巨木たちは変わらないものの、下から葦のように生えた背の高い草状のものも増え始めた。

 はじめは魔物かと警戒していたが、ただの草に似た形状に進化した菌の一種のようだった。

 フィリップが大人になってすぐ、世界は一日にして全てを失い、崩壊した。屍者が溢れ、瓦礫に満ちた街を必死で逃げ回るしかなかった。グレーテルと再会したのはそのさなかだった。混乱の中、ふたりでどうにか郊外へと落ち延びた。

 覇王の侵攻によって、人々は絶望に追いやられ、細々と終焉に向かって隠れるように生きていた。社会や国など、あってないようなものだ。今までは動いていた陸路や海路も断たれ、物資の運搬もままならなず、世界的であらゆる資源の流通が絶えた。手元にあるもの、そこで作れるものだけが全てとなり、手近に残されたものを奪い合った。人の行き来が絶えた街道で誰かと会うことがあれば、例外なく襲い掛かってきた。

 そうして、社会が荒廃していくさまを、指をくわえて見ていることがふたりには出来なかった。

 屍術に手を染めたのも、仕様のないことだ。生き延びるため、何よりすべてを取り戻すため、戦うにはそれしか術がなかった。

 元々、フィリップとグレーテルは同じような境遇で育っていた。家庭の経済環境も近く、受けた教育もほぼ同じだ。ふたりは幼年から時間を共にし、大学で同期だった。専攻こそ、フィリップは時空間魔術、グレーテルは精霊術と異なったものの、在学中はお互い知己の仲であった。

 それでもただお互いに見知っていたというだけで、卒業後は疎遠だった。たまたま、覇王侵攻を契機に2人は再び引き合わせられた。それ以降、ふたりで屍者を用い、戦い抜いてきた。

 けれども、それももはや限界を迎えようとしていた。

 使役するための屍体が明らかに不足し始めた。これまで騙し騙し活動を続けてきてはいたが、そう長くは保たないだろう。

 フィリップの専攻は時間遡行――過去へ戻る術だった。彼の前の代にはその基礎理論はすでに出来上がっていた。ただ、そのために必要な魔力は想像を絶するものだった。そして、その消費量は遡行する時間が遠ければ遠いほど、つまり過去を目指すほどに指数関数的に増えると知られていた。

 覇王侵攻後、フィリップはずっと考えていた。今まで研究してきた延長線上で過去に干渉して現在の問題が解決する方法があるのではないか、と。数秒程度の過去遡行は実例が既にあった。ただそれも、必要魔力が少ないから出来た最小規模の実験だった。

 グレーテルと落ち合ってすぐに、彼女はフィリップの専攻を覚えていたため、「過去に戻って世界を変えることは可能だろうか」と真剣な表情で尋ねたことがあった。

 ――どうしてそんなことを?

 ――過去を変えるためです。現状を打破するには、今の努力でカバーできる領域を超えている。

 ――そうか。……現実的には無理だろうな。魔力が圧倒的に足りない。

 フィリップの返答に、グレーテルは怯まず詰める。

 ――魔石を集めたら? 大量の魔石があれば可能ではありませんか?

 ――街作りになるぞ。単に魔石を集めるだけでは意味がない、石から魔力を引き出し、一点に集中する構造にすることを考えたら、ふたりじゃ一生かかりでも無理だ。とても現実味がない。

 グレーテルは少しだけ、考え込む様子を見せた。

 ――神の力を借りるのは? それならば可能では?

 ――そんな量を借りた前例はない、全部寄越せなんて聞き入れられるものか。

 ――なら、死んだ神から奪うのは?

 ――死んだ神の力は死んだその場で霧散する。受肉して顕現した個体なら可能かもしれんが、そんな都合のいいものどこにも残っていないぞ。

 ――でも、仮に受肉して死んだ神の遺骸が現存すれば、できるという事ですか?

 ――まぁ、そうなるが……

 グレーテルと親しい関係であったわけではない。顔見知り程度だ。そんな彼女がはっきりとものを言い、貪欲に食らいついてくる姿は新鮮だったが、同時に恐ろしくもあった。

 ――あなたの言う受肉した神の遺骸は、歴史上、様々な伝承が残っていますよね。

 ――それでも、伝承だろう?

 ――ええ……。ですが、英雄が屠った神を食べ、国を築いた神話もありますし……時間がある時に調べてみます。

 この会話で終わったのだとフィリップは思い込んでいたが、グレーテルはそうではなかった。

 ある日、彼女はいつもは首から下げている眼鏡をかけ、古びて朽ちかけた郊外の図書館で、一冊の本を読んでいた。よもや殺されたのではないかと探し回っていたフィリップは、安心したと同時に隠しようもない苛立ちに襲われた。

 それでも、大きな張り出し窓に腰かけて本を読む姿は、痩せこけた頬さえ見なければ、まるで平和な時代の学生時代のように穏やかだった。

 ――屍者になっていたらと思ったら、読書か。

 ――なんのことですか?

 よっぽど夢中になって読んでいたのか、彼女は驚いたように顔を上げた。

 ――いや、僕が屍者を操っている間に、まさかいなくなっているとは思わなかった。僕の体に戻ってみたら、君がいなかった。どこか行くなら、一言くれないと困る。

 ――ああ、そうですね……すみません。突然思いついて……、あなたの様子も安定していたので、つい抜け出してしまいました。

 ――何を思い出したのかな?

 グレーテルは力強く頷いた。

 ――菌の森を。

 ――菌の森……? って、あの谷間にあるって言う?

 フィリップの問いに、彼女は大きく頷いた。

 ――あの森は古代の神の眠る場所。まさかこんなところに、こんな貴書が紛れていたなんて……結末知れずの闘争記録が数多く残されていました。記されているものも古語です。

 フィリップも書架をあるけば、複数の関連した図書が見つかった。

 ――古語で書かれている歴史書でした。ここにあるものは恐らく本当でしょう。

 ――古き神が眠る……か。

 ――魔力が残されている前提となる、肉の体に宿した後倒された神が幾つか……けれど、あくまで少数でした。

 ――ああ、そうだろうな。古い記録の中でも、特に古いものにしか出てこないヤツだ。

 ――神の顕現には本来肉体は不要で、なにか特別な理由がなければそうされる事もなかった。肉体を持たずに討たれた神は、その内に秘めた魔力ごと消散し何も残らない。仮説ですが、最も古い時代には、神々も顕現する姿を試行錯誤した時期があったのかもしれません。肉体を持って顕現し、そして討たれた後捨て置かれた神など、そのものの記録はなかったのですが……

 これを見て下さい、とグレーテルは古地図を示した。

 ――神を鎮めに旅立った英雄の行方を知る者はいない……、こういう地に、恐らく討たれて倒れた神の遺骸が現存する可能性があります……その場所さえ分かれば……

 ――ん、これは……

 フィリップはすぐさま、いつも持ち歩いている汚れた地図を広げた。古地図を交互に指さす。

 ――ここが、同じく城塞……高地……少し違いがあるが、同じところじゃないか……?

 ――そうです。そして、ここに菌の森。神の遺骸が、ここに……?

 グレーテルの声は興奮して上ずっていた。まだ確定していないものの、どうしても期待が膨らむ。フィリップは大きく頷いた。

 ――行こう。試す価値はある。

 決意は固まった。装備を整えて、ふたりは早速菌の森を目指した。

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 ふたつのガスマスクを通した呼吸音。梢から垂れた菌糸は、まるですだれのように行く手を次々と塞いでいた。それを押しのけた途端、突然視界が開ける。

 フィリップは、はっと息を飲んで足を止めた。

「――……ここだ」

 ふたりで作った地図とほとんど同じ場所に、それはあった。

 死した神の寝床。

 何千年も前に英雄と戦い没したとされる神が横たわっている。

 鯨に似ている。がらんとした空間の中に大きな赤黒い鯨の遺骸が打ち捨てられているように見えた。

 遺骸の周囲にはまるで丁寧に森をえぐったかのように円形の湿った地面が都市の広場ほどの範囲で広がっており、草一本、菌木一本も生えていない。まるでその遺骸が、あらゆるものが近づくことを拒んでいるかのように。

「……うっ……」

 グレーテルは口を抑えてうずくまった。

「大丈夫か?」

「……精霊の気配が……こ、濃すぎる……すみません、少し時間をください……」

 弱々しい声で告げたグレーテルが、額につけていたサークレットを外して、座り込んでしまう。

 やむをえず、フィリップは少し時間を置くことにした。すぐそばに腰かけて、フィリップも死骸を見つめた。生身で、感覚を増強する道具も身につけていないフィリップは、その遺骸から放たれる魔力の迸りを直に感じずに済んだ。

「あれが神の遺骸か? 鯨のように見えるんだが……」

 フィリップは神の遺骸を見ながら首を捻った。

 グレーテルはまだ肩で生きをしていたが、答える余裕は出てきていた。

「あなたは鯨を見たことが?」

「祖父は漁師で、幼い頃に鯨を見たことがある」

 グレーテルは雑談には反応せず、死した神の遺骸に歩み寄っていった。

 肉の大部分が朽ち落ち、元の形は分からない。骨の先から先までの距離から、巨鯨ほどの大きさの存在だったと察することが出来るだけだ。

 フィリップも近づいて見れば、それは明らかに鯨とは異なる特徴を有していた。抱え込まれた両の腕と太ももと思しき4本の節が見て取れる。

「……人か?」

「当然人ではありません。ただ、極めて人に近い形をした、大型の何か……でしょうね。人を象って顕現したのでしょうか」

 グレーテルは微かに首を傾げていた。

 よくよく見ると、手足や頭部の形は残っている。ひとつひとつの大きさが人間と比べ物にならないくらい巨大だ。横向きに膝を抱えるような形で倒れていたため、残った部分がひとかたまりにまとまって丸々とした肉塊に見え、遠目から横たわった鯨に見えたのだ。

 グレーテルは躊躇いなく、その肉片に触れた。

「お、おい! 触れて大丈夫なのか?」

「触れないと確認できないでしょう。いまさら躊躇しても仕方ないじゃないですか。」

「それは、そうだが……」

 彼女は表情を変えることなく、手袋をしたまま肉片をつまみ上げ、背負った鞄から留め金を外して手にとったモノクルを通してまじまじと観察した。流石にフィリップはまねる気にはなれず、顔を背け代わりに周囲の森を見渡していた。

 屍術師として屍体を扱うことには慣れたが、それを当然望んでいるわけもない。ましてや、死した神の肉片なぞ、触れて何が起きるとも知れぬものを、掴む気も起きなかった。

「……やはり。山羊と、おそらくは牛の混合……生贄を触媒に受肉されたものですね」

「数千年も前のものが?それだけ経っててわかるものなのか?」

「受肉した神の記録は数は少ないですが、それを食したものが不滅を得たという伝説は幾つか聞きます。残された肉そのものが不滅だとしても、不思議はないでしょうね」

「まぁ、山羊と牛のミンチなら、味は良さそうだな」

「その冗談は面白くありません」

「はは、誰が食べるものか。触るのもお断りだ」

 フィリップは肩を竦める。

 ガスマスクをしているから、臭いは分からない。

 蠅もたかりもせず、数千年を経ても微生物に分解されている様子もなかった。

「ここで朽ちていっていたということは、この神はひとりで死んだのか?」

「いえ、この辺りの骨が折れています。きっと英雄と戦い、敗れたのでしょう」

 グレーテルが示すあたりをしかめ面しながら片目で見やる。左脛と思しき位置の骨が、粉々に粉砕していた。これほどの打撃を神に与える英雄とは…。想像が出来ない。あるいは、Buriedbornesの術を介するならば、可能だろうか。ふと、古の時代からBuriedbornesの術は扱われていたのではないか、という妄想にも似た想像が浮かんだ。

「英雄や魔物は神から力を奪う……けれど、この肉体だけが残ったということは、この谷間には元々、遺骸を喰らえるような肉食の魔物や獣がいなかったのでしょう。当の英雄は、恐らく相討ちに」

「その英雄はどこだ?」

 グレーテルが指をさす。その先を見れば、遺骸を中心とした空間の縁に、ボロボロに朽ちた剣の柄らしきものだけが落ちていた。刃は完全に失われて、金の装飾部分だけが、堆積物をかぶりながらも劣化せず残っているようだ。

 受肉した神の肉体が持つ不滅性が証明されたと言える。あまりにも長い時間を経て、相対した英雄の遺体がほとんど朽ちて消え去った後も、まだこうして肉体を残していたことになる。

 木々や草花は育たず、陽の当たらない崖の下で、菌糸類だけがその溢れ出す力の恩恵を受けて菌だけの森を成した。もとより人が住めるような場所ではなかったのだから、手を付けられることもなく歳月が過ぎた事に、疑問の余地はない。

「ここに人間が来たのは、どれくらいぶりなのか」

「……はじめてかもしれませんね。このふたりの他では、はじめての訪問者なのでは? 英雄自身も、はたして人間だったかどうか……」

「好都合だな。予定通りいけそうだ」

「ええ、準備は大丈夫ですか?」

「ああ」

「魔力の計測もそろそろ終わりそうです。正式な数値はまだですが、現時点で必要な魔力を越えています」

 グレーテルは研究者らしく、目を輝かせて頷いた。フィリップも頷き返す。

「ここまで近づけば、肌で分かるレベルだな。この魔力量なら、想定通り飛べそうだ」

「ええ、そうですね」

 人生でも目にしたことがないほどの、内包された計り知れないほどの魔力量。これほどの力を使うことができれば、確実に過去へ戻ることが可能だろう。

「あーあ。どうせなら、覇王が生まれた頃まで戻って子供のうちに縊り殺せたら、もっと楽なんじゃないかな?」

「…この遺骸と同じものを数万体ご用意する気力がおありなら、どうぞ。一緒に試算したでしょうに…」

 時間は巻き戻せる。

 有限でも確実でもないが、方法論は確立している。フィリップはそれを扱える。ただ、この世には魔力が絶対的に足りない。

「この遺骸があってこそ、可能になった、それでも、たったの50年か……。だが、その時期であれば屍体も多く集まるだろう。今ではもうお目にかかれないような、名だたる英雄の屍体も手に入るかもしれない。その力で覇王を討ち、人間が人間として生きる時間が取り戻せるはずだ」

「ええ。失敗は許されません」

「もし失敗したら、どうする?」

「……そうですね、残された戦力で、覇王相手にはもう勝ち目はないでしょう。手詰まりです。未来に可能性を残すために、あなたと子でも為しましょうか」

「その冗談は面白いよ」

 フィリップが笑うと、グレーテルは不満そうに眉を寄せた。

「人間らしい生活を、社会を……取り戻さねば。国や都市が機能し、人々は安全に暮らす、学府にも人がいて、積み重ねられたものが未来に残されていくような……そういったものが、この世界には必要です」

「ああ、その通りだ」

「もし私達に覇王を打破できなければ、より可能性の乏しい後世にすべてを託すしかない。可能性は狭まるばかり。それだけは避けなければ」

「そうならないように、今、やれるだけの事はやろう」

 フィリップは杖を荷物から引き抜いた。

「さ、そろそろ行こうか」

 戻る場所はたった50年。それでも十分だ。

 人類の未来のため、有意義に使わなければ。

 フィリップは杖を握る手に力を込めた。思い切り、遺骸に杖の先を突き立てた。肉を貫く感触は、遺骸というのに生々しくぶにぶにと柔らかかった。

 杖を差した部分から、光がふわりと零れたと思えば、光の筋が一気に杖を通過し、瞬く間に杖全体が発光する。両手で握っているのに、杖のもたらす衝撃に体が吹き飛ばされそうになる。

 杖を中心に、魔力の奔流が竜巻のように徐々に渦を巻き、菌の梢も揺れ、森を包んでいたすべての音が遠ざかって行く。凄まじい轟音が響き、杖自身が悲鳴を上げる。悪路の馬車に乗せたように大きく揺れ振動し、弾け飛ぼうとする。必死でフィリップは縋りついた。

 グレーテルは風の中、近くの木にしがみついてフィリップを見守っていた。その表情は落ち着いている。彼女ならば、過去から送り込まれた屍体もきちんと回収し管理してくれるだろう。彼女のような人間に背中を任せられる自分は、こんな時代において、幸せ者ではなかろうかと時々思うが、今はその気持ちが特に強い。

「世界を、救わなくては……!」

 遂に杖は、内側からの力に負けるようにたわんだ。咄嗟に手で押さえたが、その瞬間、ガラスのように砕けて、真っ二つに折れた。

 そして、世界が揺らいだ。

「フィリップ、お気をつけて」

 何も見えない光の中で、グレーテルの最後の言葉は、しっかりと聞こえていた。

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~つづく~

原作: ohNussy

著作: 森きいこ

ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸い

です。

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